きのこ狩り

.30 2010 フランスの自然 comment(4) trackback(0)
横浜駅の西口で待ち合わせをしているときに、時間に余裕があったので、
ジョイナスの商店街をぶらぶらと歩いてみた。
ご進物専用の果物屋で、松茸を見た。
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国産は今年は猛暑で不作と聞いていたが、これはカナダ産。
でも一籠3150円。隣に韓国産があったがこれは4200円。
我が家はだいぶ前に、スーパーで中国産2本500円というパックを
見つけて、炊き込みご飯にして、かろうじて秋を味わっただけである。

フランス人はクリ拾いはしないのだが、きのこ狩りは大好きである。

秋のこの季節になると、ゴルフ場で前の組がコースの中に
シャリオ(手引きカート)を置きっぱなしにして
森の中からなかなか出てこないことがある。
ボール探しに手間取っているなと待っていると、
茂みから人が出てきて、手を振り、先に行けという合図をする。
追い抜くときに見ると、ボールを探しているのではなく、
きのこを探しているのだ。
何だ、いい加減にしろと言いたいが、
スコアが悪くなると、きのこに興味が移るのは人情かもしれない。

秋の休日にレンヌの森に行くと、手に籠を抱えた人が
あちこちできのこを探している。

レンヌの森は町の北東にあり、直径が5~10kmあって、自然公園のようになっている。
この地図の E03 の上の暗緑色の部分である。
レンヌの森 007

我が家も子供達を連れて時々ピクニックに行くのだが、
その主たる目的は自転車の練習であった。
森の中には縦横に散歩用の直線道路が走っており、
この道は自動車進入禁止なので、子供たちが自転車の練習をするのにちょうどよいのだ。
車のトランクに子供用自転車を2台積んで行ったものだ。

子供たちが自転車に乗っている間に、
親のフランス人は結構真剣にきのこを探している。

フランスでは、きのこを採った後、薬局に持っていくと、
薬剤師のお姉さんが、無料で、食べられるきのこと毒きのこを区分けしてくれる。
ある日本人が籠いっぱいのきのこを持って行ったところ、
そのうちたった一本だけが食べられるといわれ、後は全部捨てるように言われたそうだ。
こういう話を先輩駐在員から聞いているので、
日本人は、はなからあきらめて、きのこ採りをしようとは思わないのだ。
フランスではきのこの見分けができないと薬剤師になれないそうだ。

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ジロール(またはシャントレル)  ------- セップ -------- モリーユ
(注)キノコの写真の出典は全てWikipedia

レンヌあたりではわりと簡単に採れるのが、ジロールとかシャントレルといわれる
アンズタケの種類らしいが、似たようなきのこも多いのでむずかしい。

一番値段の高いきのこがセップと呼ばれるもので、
日本の松茸のように珍重されている。
シーズンになるとテレビにセップ採りの名人が出てくる。

私が大好きなのがモリーユと呼ばれるアミガサタケ。
肉料理で「○○のモリーユ添え」などと書いてあるとすぐに注文してしまう。
ソースが傘の部分にしみてとても美味しい。

もう一度フランスに行って、モリーユが食べたいと思う。
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伊勢原日向薬師

.29 2010 花(草花) comment(4) trackback(0)
伊勢原市の日向薬師(ひなたやくし)の前の彼岸花群生地にピクニックに行きました。
埼玉の巾着田まで行く時間はないので近場を攻めてみました。
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大山(おおやま)の近くです。
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このあたりの田んぼのそばには、彼岸花の群生がいたるところにあります。
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私たちも、久々に青空の下でお弁当をいただきました。
このおじさんも気持ちよさそうです。
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この花の名前はチロリアンランプ(アブチロン属アオイ科)であることが判明した。
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萩が満開になっていました。
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萩の下にも彼岸花があります。
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竹やぶの中にも。
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栗は今が採りごろ。
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柿畑の中にも。
ちょうど柿の世話をしていたおばさんが、富有柿を2個くれました。
まだ青かったのですが、十分美味しかったです。
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カラスウリも熟れています。
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田んぼのそばの疎水は風情があります。
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以下は、私の大好きな原田泰治が描く日本の田舎の風景です。
写生をしているグループがありましたが、失礼なので写真は撮りませんでした。
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写真を撮っている方々は、後ろ姿をちょっと失礼。
今日は水曜日なので、ほとんどが熟年カップルですね。
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この散歩道は、地面がむき出しでもコンクリート舗装でもなく、
芝生でした。ゴルフ場のように足に優しくとても歩きやすかったので驚きました。

アゲハチョウ。
019あげは2

赤トンボ。 オニヤンマもいましたがすばやくて撮影できず。
(注)その後の調査でナツアカネと判明。
020とんぼ2

このトンボの名前は只今調査中。
(注)その後の調査でミヤマアカネの幼生と判明。もう少し時間がたつと赤くなるそうです。
021とんぼ4

庚申塚がありました。
022庚申塚1

庚申塚のそばには当然のように、白髭神社がありましたが、この神社は珍しくわらぶきです。
(注)白髭神社のご祭神は猿田彦命、行く手を示す神、道を守る神
023白髭神社
日向薬師はこの近くの参道からのぼるのですが、
家内の膝の調子が悪く、お参りしないで帰りました。

秋を満喫できたよいピクニックでした。

くりひろい

.28 2010 フランスの自然 comment(4) trackback(0)
テレビで笠間市のクリの出荷が始まったというニュースを流していた。
茨城県はクリの生産量が全国一位である。
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県央部の笠間市、特に合併前の岩間町と友部町はクリ密度が非常に濃い。
私は07年~09年まで3年間を友部に住んでいたが、
至る所にクリの畑があり、常磐線の特急に乗っていると、
岩間~友部はクリの木が多いことにいやでも気づく。
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私が働いていた会社も遊休地としてクリ畑を所有していた。
会社の所有地であるから、従業員に勝手にクリを採ってもいいよといってあったが、
地元の従業員はクリなぞに見向きもしない。
大体この季節、友部のビジネスホテルでは、袋に入れた栗をホールに積み上げて、
「お客様はご自由にお持ち帰りください」と書いているくらいである。
結局そこの畑でクリ拾いをするのは、親会社から出向でやってきた、
我々夫婦(横浜出身)ともうひと組の夫婦(横浜出身)くらいなものであった。

我々夫婦がクリ拾いをするのはフランスに住んでいた時以来である。

ブルターニュのレンヌ市の外周環状道路の外に出ると、
そこには自然の野山がふんだんにある。
レンヌのQuai(ケ:運河川岸)の通りの郵便局の前に ” information”(観光案内所)があり、
そこでレンヌ市周辺のハイキングコースや城めぐりサイクリングコースの案内図をくれる。

秋にハイキングコースを歩くと、クリが至る所に落ちている。
大体そういうハイキングコースを歩いているのはうちの家族だけで、
フランス人と出会ったことがない。
(一度だけ馬に乗っているカップルとであったことがある。くやしい。)
だから、フランス人がクリを拾っているのを見たことがない。
わらびと一緒で、日本人の我々にはこんなに落ちているのに「もったいない」
と車に引き返して、ビニール袋をとって来て拾いまくるのである。
すぐにビニール袋2杯分くらいは拾えてしまう。

フランス人が拾わないのは、拾っても調理の仕方を知らないからではないかと思う。

冬になればフランスでも街頭で焼き芋のように砂利で焼くやりかたで、
焼き栗を売っている。また、レンヌから南に下ったところにルドンという町があるが、
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ここではクリ祭りをやっており、その日は町中で焼き栗が食べられる。
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また、マロングラッセという菓子は有名だが、
それ以外にクリを使ったお菓子は見たことがない。

因みに、フランス語では
クリはシャテーニュ Chataigne といい、クリの木はシャテニエ Chataignier という。
リンゴはポム Pomme なのでリンゴの木はポミエ Pommier という。
サクランボはスリーズ Cerise なので桜の木はスリズィエ Cerisier という。
簡単である。果物の名前の後に イエ ier をつけると木の名前になるのだ。
英語では木の名前をどういう風に言うのかいまだに知らないのは、何故だろう。
英語圏の田舎で生活したことがないから覚える必要がなかったのだ。

マロン Marron はクリではなく栃の実である。
従がって、木の名前はマロニエ Marronier である。
日本人はマロニエが栃の木であることを知らない人が多い。
昔はマロングラッセは栃の実で作ったが後にクリに置き換わったといわれている。
日本では栃木県や田舎に行くと土産物として栃餅を売っているが、
フランスでは今はトチノミは食べていないらしい。
パリで歩道に転がっているが誰も拾わない。

ブルターニュの会社のそばの農道の並木にクリの木が使われており、
やはりクリは道路に落ちっぱなしで誰も拾わない。
そのうちの3本の木に日本の丹波栗と同じように大きいクリがあるのを見つけた。
普通のフランスのクリは小ぶりなのである。
それ以来、秋のクリ拾いはそこですることに決めていた。

我が家のクリ料理は、ゆでて食卓の上にかごに入れてデーンと置いてあるのを、
勝手に食べる方式である。
これが一番手間がかからないからである。

時々は家内がせっせと包丁で皮向きをして栗ご飯にしてくれる。
こんな面倒なことをしてくれるのは、うちの家内くらいなものらしいので、
これには皆感謝している。

栗ご飯は我が家の男どもは大好きである

戦艦ポチョムキンの反乱

.27 2010 読書 comment(2) trackback(0)
「戦艦ポチョムキンの反乱」英国人リチャード・ハフによるノンフィクション
(講談社学術文庫)を読んだ。
市立図書館でたまたま目に入ったからである。
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(写真出典:Wikipedia)
私は世界史が大好きで、大学の入試科目(当時6科目)の中でも、得意科目だった。
ただし、ロシア革命は現代史に属し、高校3年の3学期になって学ぶものだから、
入試にも出ないし、あまり熱を入れてここらあたりを勉強したことがない。
フランス革命とは大違いである。

それに私は、共産主義が嫌いで、ロシア(当時はソビエト)という国が
好きになれなかった。とにかく言論の自由がないというのが許せない。
恐怖政治をやらないと政権が維持できないというのは、何か問題があるからだ。
私が学生時代は学園闘争の時代で、中国の毛沢東思想にかぶれた学生も多かった。
当時の文化大革命に心酔する学生を私はあほかと思っていた。
素晴らしい思想かも知れないが
「小学生が大学の教授に白い三角布をかぶらせ、縄をつけて町中を
引きまわすなどということは、どう考えても、まともな思想とは思えない」
と私を説得にかかる友人に反論したものだ。
だから当時の私の立場はいわゆる、共産主義が嫌いなノンポリラジカルだった。
機動隊が嫌いということでは意見は一致していたのだが。

「戦艦ポチョムキンの反乱」は、今WEBで調べてみると、
1967年に映画が日本で公開されている。
多分それが理由で、私の中では、ロシア革命を象徴する重要な事件として
なんとなくよく知らないまま印象づけられていたのであろう。

この本はノンフィクションなので、資料に基づいて推測した事実を
淡々と描いている。

この事件が起きたのが1905年6月27日。

日露戦争でロシアが負けた直後である。
1904年年末、旅順港が陥落し、
1905年5月、対馬沖の海戦でバルチック艦隊が全滅しており、
8月19日にイギリスのポーツマスで終戦条約が成立している。

実際にロシア革命が成立し、ロマノフ王朝が消滅したのは
第一次世界大戦の最中の1917年3月であるが、
ポチョムキンの反乱がおこった年(1905年)の1月には、
首都サンクトペテルブルグで請願デモに軍隊が発砲し、
500人が虐殺されるという[地の日曜日事件]が起こっている。
この辺りから、ロシアでは各地で爆破事件や暴動が起こっており、
無政府状態といっていいような状況になりつつあった。

こういう状況の中で、ポチョムキンの反乱は起こった。
事件のきっかけは全く偶発的で組織だったものではなかった。
蛆のわいた腐った肉の蛆を海水で洗っただけで、
ボルシチに入れたということで、
兵隊がそんなボルシチが食えるかといい、
食えといった艦長・士官を殺して艦を征服したのである。

ポチョムキンが軍旗ではなく、赤旗を掲げてオデッサ港に入ってきたため、
同調した市民の蜂起が起こり、翌日6月28日に、
オデッサのリッシェリュー階段でコサック兵による大虐殺が起こった。
6000人が殺されたと推定されている。

この惨劇の直後に、軍は街に出ていた人々を扇動し方向転換させるべく、
ユダヤ人襲撃を示唆して、略奪が始まっている。
似たようなことはロシアのあちこちで起こっており、
ロシアで虐殺されたユダヤ人は相当数にのぼるといわれている。

ポチョムキン号は奪った金は豊富にあったものの、石炭と食料の調達ができず、
結局7月8日(12日後)に、ルーマニアのコンスタンツァ港に上陸し、
乗組員は亡命した。
そのほとんどは海兵として訓練されていない農村出身者だったので、
オルグが説得しても革命に積極的に参加する気はなかったのである。
一部はルーマニアの農村に散り、一部はイギリス経由でアルゼンチンに移民したという。

著者はノンフィクション作家で断定はしていないのであるが、
この事件がロシア革命の象徴的事件として人々の記憶に残るようになったのは、
20年後の1925年に映画がつくられたからだと、
私は個人的には考える。

共産党革命が成立して8年、革命のプロパガンダのためにこの映画は作られたのだ。
歴史は作られたのである。

日本では67年、ちょうど学園闘争が盛り上がる前の年にこの映画が公開されたので、
余計若者にアピールしたのであろう。

(参考)
Wikipedia 戦艦ポチョムキン
Wikipediaポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)

Qちゃん

.24 2010 シドニー comment(0) trackback(0)
今日9月24日は秋分の日の翌日ということで特別な日ではない。
なんとなく昨日と同じ半袖を着たら、
母を病院に連れて行く時に、うすら寒かった。
病院では誰も半袖を着ていない。
セーターを着ている人もいた。
一昨日の暑さも昨日の雨で、本当の秋の到来である。

テレビをつけっぱなしにしていたら、
今日は何の日ということで、2000年の今日9月24日に
シドニーオリンピックで高橋尚子がマラソンで優勝したシーンを流していた。

あれからもう10年経ったのか。

あの日私は、シドニーではなく、ゴールドコーストで
社長と一緒に接待ゴルフをしていた。
お客は東京のえらいさんで、IBMのVIPご夫婦ご招待で、
シドニー湾の豪華客船を借り切ったホテルに、
オリンピック見物に来られたのである。
私の上司の社長にとってはUSA時代の直接の上司であり、
たまたま私にとっては会社に入る時に口をきいていただいた方なので、
二人ともこれ接待に努めざるを得ない。

私がブルターニュに赴任していた時に、この方はUSAの社長で
グループが主催するゴルフのヨーロピアンオープンに招待客でスイスに来られ、
私がパリからブルターニュまで車でお迎えに行くはずだったのだが、
オープンの最中に日本で元会長特別顧問が亡くなられたので、
それも急遽中止になったのである。

ゴールドコーストには、親会社の元役員で、ヨーロッパの社長をされていた方が、
勇退されて別荘を構えられていた。この方には、全員が昔何らかの形で
上司であったり、お世話になっていたので、この別荘に集まって昔話をしたのである。
ゴルフ場の中にある、アメリカ式のすごい別荘だった。
私としても、ブルターニュを案内できなかった借り?があり、
奥様にも初めてお会いすることができて、楽しい晩だった。
翌日は奥様方と一緒にゴルフをし、ワラビーに見つめられながらパッティングをした。
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これはこれで非常に楽しく懐かしい思い出なのだが、ひとつ心残りがあった。

オリンピックの切符を売り出した半年前、
オリンピックはまだ人気がなく、シドニー市内の切符売り場はガラガラだった。
さすがに開会式の切符だけはネット販売などで事前に売り切れていたが、
そのほかのゲームは何でも買えた。
松坂投手は日本でも見たことがなかったので、
まず野球の日本対USAの試合の切符を買った。
しかし、メインスタジアムにも入りたかったので、
スタジアムで見る競技は何がよいか考えていたのである。
男子百メートル決勝はさすがに売り切れていたので、
考えたあげく
女子マラソンは来るかもしれない
と考えてその日のコースわきの席を買った。

ところが、間際になって、ゴルフの接待をすることになり、
この切符が使えなくなったのである。
結局この切符を友人の紙パルプ商社の方に売った。
この方は、感謝感激、「豊栄さんのお陰で歴史的シーン
(日本女子で初めて陸上競技で金メダル)を目の前で見ました」と
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そのあと事あるごとに言うのである。
私を悔しがらせようというのが見え見えなのだ。
私はそこで悔しがって見せなければならない。

来週、その時のシドニー飲み仲間の商船会社の人が、
ブラジルから帰ってくるので、例の品川の飲み屋に行かなければならない。
またこの話が出るかもしれない。
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