事務作業の合理化(その1)

.30 2010 仕事 comment(0) trackback(0)
先にデジカメがフィルムカメラを駆逐し、
フィルム産業を衰退させたことを書いた。
わずか最近10年間のことである。

しかし、よく考えてみれば、カメラに限らず、
我々の時代は常に技術革新の波にさらされていた。

私は1970年代初めに大学を出て企業に就職し、経理をやれといわれた。
「えー、そろばんですか。私は小学校4年の時に授業で習って、
商工会議所の6級をとっただけですよ」
当時、金勘定は大蔵省も銀行も企業経理もみんなそろばんだった。
まだタイガー計算機があった時代である。

電卓は72年の8月にカシオ・ミニ(350g)が12,800円で発売されて、
爆発的ヒットになったが、私の初任給は7万5千円だった。
結局、私はずっとそろばんを使い続け、
80年代の半ばからようやく電卓を仕事に使うようになって、
そろばんができないといって馬鹿にされることはなくなった。


考えてみれば、日本がそろばんを使っていたころ(80年代の半ばまで)、
西洋では足し算引き算は何を使って計算していたのだろうか。
筆算だろうか。確かにそれ以外はなかったはずだ。
銀行なんかはどうしていたのだろうか。

西洋で複式簿記が発達したのも、
そのほうが足し算ばかりで計算しやすかったからだと私は思っている。
そろばんでは足し算と引き算が混じっていても自由自在だが、
筆算ではそうはいかない。
同じ符号のものだけを足し算して、最後に合計の差額を引き算で求める、
複式簿記だと引き算は一回で済むのである。

日本の電卓が西洋人を計算業務から解放したのか?

次に目覚ましかったのがファクシミリだった。
入社当初は、他の事業所や本社とデータのやり取りをするのは、
郵便以外はテレックスだった。
字数をなるべく少なくして原稿を書き、総務課の女性にタイプを頼んだものだ。
総務の女性は穴あけテープを作り、その穴あけテープを機械に読ませると、
受け側の電子タイプライターが印字するのである。
商社マンや外信部の新聞記者はテレックスが打てないと商売にならなかった。
初めてFAXが事務所に導入された時は、
みんな驚愕し喜んだものだ。

そのファクシミリも今ではeメールに取って代わられ、
書類もファックスではなく、PDFにしてメール添付して送った方が、
ファイルしなくて済むといって喜ばれる。FAXで送ると怒られるのだ。

次がコピー。

昔は「ガリ版」か「青焼き」だった。
大学時代はガリ版でゼミの資料を作っていたし、
会社に入っても、大量に配布する資料はガリ版だった。
それほど部数の必要でない物や、急ぐものは青焼きだった。

青焼きと言うのは、透明な紙の上に鉛筆で原稿を書き、
それをジアゾの塗料をコーティングした紙の上に乗せて、
光を当てて感光させる方式である。
その時にアンモニアを使うので、印刷室に入るとツンと鼻をつく臭いがした。
設計図面は大きい紙を使うので、今でも青焼きのものをよく見かける。

トナーを用いて普通紙にコピーするのは、70年代はゼロックスの独占だった。
当時は普通紙コピーを「ゼロックスする」と言っていた。
ただしコピー代としてA41枚で10円以上とっていた。
値段が青焼きの10倍以上もしたので「ゼロックスする」ためには、
申請用紙が必要で課長のハンコをもらわなければならなかった。
80年代に入ってゼロックスの基本特許が切れて、
リコーやキヤノンが普通紙コピー機のビジネスに参入してから、
普通紙コピーがようやくコピーの主流になってきた。

電卓、ファックス、普通紙コピーと事務作業はどんどん合理化されていったが、
やはり最大の功労者はコンピューターの発達だった。

(その2に続く)
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高校同窓会

.28 2010 島根県 comment(4) trackback(0)
2010年11月27日(土)晴れ

先週大学の同窓会をやったばかりだが、
今日は高校の同窓会。

家内も私も同じ高校の出身で、家内が和服で行くというので、
私もそれに合わせて和服で行くことにした。
和服は先月の長男の結婚式以来である。
その時は着付け師が全てやってくれたので、何とも思わなかったが、
今回自分で帯を締めてみると、ぴったり納まった。
若いころはは帯を締めると、端がどうしても余って、
余った部分を折りたたんで結び目の中に入れたものだ。

帯締めて ぴったり足りたと 嘆くわれ

出かける前はどうしても着付けの手伝いでせわしない。
女の着物は帯が多くて大変だなといつも思う。
高校同窓会 001

山茶花に 映える着物に 惚れ直し

永田町で有楽町線に乗り換えて市ヶ谷へ。
高校の同窓会はいつもアルカディア市ヶ谷私学会館である。
ここの会場使用料が安上がりだからである。
島根県の高校の関東地区同窓会であるが、
名簿によれば約3000人が関東にいる。
この人数が物故者の増加に伴って年々減少している。
同窓会の会長は某グローバル建設機械会社の会長さんで、
会員の減少に危機感をもち、
「若い人が同窓会を嫌って登録しないからだ、もっと勧誘しろ」と
発破をかけたのだ。
事務局の幹事が調べたところ、理由は別のところにあった。

今は島根の田舎から東京に来る人が年々減っているのだという。
我々が若いころは、島根の高校を卒業したら、京阪神や東京に
大学進学や就職で若者が都会に「夢をもって」出て行ったものだ。
今の若者は都会に行かないのだそうだ。
大学も中国地方の国立大学が殆どらしい。

この意外な調査結果に、私を含めた同窓会の理事は「へー?」

今年の参加者は180名。
総会の前に、講演会がある。
今年の講演者は浜田の出身である「島村抱月」の研究者である岩町功先生だ。
元母校の教師で母と同い年の81歳だが、お元気なことこのうえない。
高校同窓会 002
演題は島村抱月についてではなく、
先生が長年育成されてきた、島根県石見地方の演劇芝居の現況についてであった。
先生は旧制山口高校時代に現映画監督山田洋次と同級生で、
彼の影響もあって一時は東京で演出家の道に入るが、肺病で田舎に帰り、
教師をしながら田舎の演劇指導に当たられたのである。

先生のお話によると、今ストレートプレイ(いわゆる芝居)は田舎でも人気がなく、
アンケートをとると、皆が希望するのが圧倒的にミュージカルだそうである。
ミュージカルの演出は先生も経験がなかったので、色々と苦労されたが、
結局若い人に任せてみたら勢いでうまくいったとのこと。
いままでに6回の市民参加創作ミュージカルを上演してきたとのことである。
現在田舎には「いわみフィルムコミッション」というボランティア組織があって、
映画「天然コケッコー」「さくら」「砂時計」(いずれも島根県石見地方が舞台の映画)の
製作に当たって大活躍したとのことである。

大体こんな趣旨のお話だったが、石見弁で話をされたので非常に懐かしく、
笑いをとるのもお上手で、厭きの来ない面白いお話だった。

後は定例の総会と食事と懇親会。

そのあとは私と家内はそれぞれの期に別れて2次会へ突入。
なかなか楽しい一日でした。

追伸:参考
評伝 島村抱月
ヤフー人物名鑑 島村抱月
カチューシャの唄 石川さゆり 2002年
復活(カチューシャの唄)松井須磨子


三島由紀夫

.25 2010 読書 comment(4) trackback(0)
今日は11月25日(木)曇り

あれから40年。
40年前の今日、三島由紀夫が死んだ。
昭和45年(1970年)11月25日水曜日、
市ヶ谷の自衛隊駐屯地に盾の会のメンバーと一緒に突入して、割腹自殺をした。

私は、そのころは、三越デパートの配送センターでアルバイトをしており、
お歳暮の仕分けをしていたころだった。

事件のあった日、品川の配送センターからの帰りに各駅で号外を探したが
どの駅でも新聞は売り切れでなかった。
ようやく渋谷の駅で、わずかに残った号外を手に入れることができた。

その当時の私の読書の仕方は、一人の作家を読み始めて最初の本が面白かったら
全部の作品を読まないと気が済まないというやり方だった。
三島由紀夫は文庫本の「金閣寺」から読み始めて、
当時は単行本の「豊饒の海」を読んでいる最中だったと思う。

彼の小説は愛読していたものの、
結局彼の思想は理解できず、
なぜ市ヶ谷の自衛隊に突入しなければならなかったのか、
何故死ななければならなかったのか分からないまま、
裏切られたような気持ちになった記憶がある。

不思議な人でしたね。
合掌。

紅葉狩り(高幡不動尊)

.24 2010 紅葉 comment(2) trackback(0)
2010年11月24日(水)晴れ
母をデイサービスに送り出した後、再び、高幡不動尊へ。
そろそろ紅葉が見ごろになったはずだと信じて。
Momiji 007
実に久しぶりに、これだけ赤い紅葉を見ました。
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黄色
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赤と黄色
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また赤
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森の中で「素晴らしい」を連発していると、
どこかのご夫婦が近づいてきて、
奥様「今年はいまいちですよ。うちは毎年来ているのですが、去年はもっとすごかったですよ」
私「そうですか、私たちは初めてなので、これで十分満足していますけどね」
Momiji 037
時々こういう方がいらっしゃるのですよね。
頼みもしないのに知ったかぶりの余分な解説をして、水を差す人が。
確かに、もう少し遅かったら、足元の小道にも紅葉が積もって、
上も下も赤でそれはすごいでしょうが。
もう一週間遅く来ればよかったのかな。(せっかく満足していたのに)
Momiji 039
見晴らしの良い山の上からは富士山が見えました。
夏はかすんで見えないので、もう冬が近いことが分かります。
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再び山を降りながら、紅葉を堪能しました。
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Momiji 074

森の中には、シャガの群生や山アジサイ、甘茶の木がありましたし、桜の木もたくさんあるので、
いろんな季節にこの山は楽しめそうです。
お寺の後ろの墓地には、「お墓の必要な方はまだ空きがありますので、ご連絡ください」
という立て札があったので、
「ここに島根から墓を移せば、子供たちが季節ごとに墓参りをしてくれるかも知れないね」
という冗談を言いながら山を降りました。
Momiji 089
前回の菊祭りのときにはなかった飾り創作菊がありました。
これは「つるのおんがえし」
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クジャクと三重塔。
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懸崖菊
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庭の隅に、ドウダンツツジのそばに菊が咲いていました。この組み合わせは見事です。
Momiji 107

お昼は、高幡不動尊御用達の「開運そば」で「縁結びわんこそば(1000円)」を注文。
かま揚げの後でさっと冷やしたらしく、とても腰の強いそばでした。
「フランス人はとてもこんな腰の強いそばは食べられないだろうね、
フランスのスパゲッティはグチャグチャだから」
といいながら美味しく頂きました。
Momiji 110

手抜き手術

.22 2010 介護 comment(4) trackback(0)
母が昨日からお腹が痛いという。
便が固くて詰まって出ないというのだ。
「お母さん、それはないよ。もう大腸は肛門に繋がっていないんだよ」

母は昨年末S字結腸の部分に穴があき、その部分の摘出手術を受けている。
大腸は、体の右側下の盲腸から始まって、上に上がり胃の下で横に走り、
体の左側で下に下がって、S字結腸で直腸に繋がって、肛門に繋がっている。
大腸出典:yahoo辞典

切り取った大腸の最後の端は、体の外に出されて人工肛門になっている。
直腸の上は縫って閉じられている。
日々の排便は人工肛門で行われ、肛門が使われることはないのだ。

それでも母は「いや硬い便が詰まっているような気がする。時々便意を催して
トイレに行くのだが出ない、今まではそれだけのことだったが今日はお腹が痛い」
というのだ。
とにかく昨日は日曜日で病院はしまっているので我慢できるなら月曜日にしよう
ということで、今朝病院に連れて行った。

昨年末の救急車事件は中野の妹のところに行ったときに起きたので、
手術は中野の病院でやり、そのあと横浜の病院に転院させてもらって、
一月初め2週間横浜で入院したのだ。
入院していた時の担当の外科医の先生に診てもらったところ、
私と同じことを母に言う。
「お母さん、もう大腸と肛門は繋がっていませんよ。そんなことはないはずですがね」

下剤をかけても出ず、母の苦しみ様は大変だった。
私の手を握って言う。
「しんどい、死にたい。なんでこんな目に合わなければならないのか」

レントゲンで調べた結果、便が詰まっていることが分かった。
もう一年近く前の便なのでカチカチに固まっている。
最後は先生が手袋でつまみだすしかなかった。

先生は苦笑いしながら、
「もう大丈夫です、全部出しましたから」
私「また便が溜まるということはありますか」
先生「いや、繋がっていないから、もう同じことは起きません」
私「ありがとうございました、お世話になりました」

でも、内心私は、怒っておりました。
「なんでえ、ここに2週間も入院していたんだよ。
手術したのが自分でないからといって、主治医はあんただったんじゃん。
あんたのチェックミスだろ。直腸に便が残っていないかどうか」
と言いたかったのですが、ぐっとこらえました。

待ってもらった人工透析を2時間遅れで開始して、
なんとか今日は無事に終わりました。

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