ホトトギス Tricyrtis

.31 2011 花(草花) comment(0) trackback(0)
最近我が家の周りでホトトギスが満開になっている。

この花は山道などで
一輪か二輪、楚々と咲いているのを見つけた時が嬉しい。

山路来て何やらゆかしホトトギス

という雰囲気がいいのだ。

ところがどういうわけか、この花は意外に人気があって、
あちこちでまとまって植えられている。
この花壇はホトトギスだけでいっぱいだ。
hototogisu 001

楚々とした花も、これだけ大量になると、
豪勢という感じになる。
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しかも、このホトトギスは花数が多い上に、
ピンクが濃いので余計あでやかに感じられる。
hototogisu 003

こちらのホトトギスが普通の種類だと思うが、
ここもかなりの群生地になっている。
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最初の花は花びらの大きさにあまり差がないが、
こちらの方は大きい花びら3枚と小さい花びら3枚に歴然と差がある。
hototogisu 005

色も若干青っぽいし、斑紋が小さい。
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ユリ科ホトトギス属は日本・朝鮮・台湾に分布し19種類あるそうだ。
うち日本には13種があり、そのうち10種は日本固有種らしい。
ただ亜種もたくさんあって見分けが難しいとのこと。
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これは上の2種類とは別な所にあったホトトギスで、
光の加減かもしれないが、より紫色がかってみえる。
そばに生えているミズヒキ(タデ科)の赤色と相まっていい写真がとれたと思う。
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最初の写真の木の後ろ側に、この白いホトトギスの株があった。
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私も家内も白いホトトギスは初めて見たので、
非常に感激している。
shirohototogisu 002

上品な感じが良い。
shirohototogisu 003
惜しむらくは葉が茶色に枯れて見苦しいことだ。

この花は開花期間が長いのでもうしばらくは楽しめそうだ。

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シチリア料理 カレット Ristorante Siciliano

.30 2011 食と料理 comment(4) trackback(0)
みすずが丘の蕎麦畑を見たあと、
すぐ近くのシチリア料理のレストラン「カレット」に行きました。
(カレットの店のホームパージはこちら
店の経営者が自転車好きのようで、
イタリアの自転車が飾りにおいてあります。
店がお休みの時にこの自転車に乗るのでしょうか?
Carretto 01

この店には私は去年の6月2日(水)に次男と来たのですが、
(その時の記事はこちら
家内は今回が初めてです。
前回来たときは水曜日のお昼だったのですが、
ほとんど女性ばかりで満員に近かったことを覚えています。
今回は木曜日の昼。
女性客が4人と、若い夫婦一組が先客でいました。
Carretto 02

2人とも1500円のランチセットを注文。
これは前菜。
左がカポナータとかいう料理で、
フランスのラタトゥーユに似た茄子の料理でした。
右はオムレツ。
小さいパンが2つずついていますが、
お腹が空いているときは前菜の時にみんな食べてしまうのです。
Carretto 03

メインはパスタ。
私がほうれん草のクリームソース。
家内のは忘れました。
ここのスパゲッティはアルデンテもアルデンテで、
硬いといったほうがいいくらいです。
前の記事にも書いたようにフランス人は
こんな硬いスパゲッティは絶対に食べません。
Carretto 04

デザートはクレーム・ブルレのキャラメルの代わりに
チョコレートをかけたような感じのプリンでした。
carretto 05

ここまでは順調でしたが、最後のコーヒーがいけない。
コーヒーがまずい? そうではないのです。
Carretto 06

このコーヒーカップが片手では持てないのです。
右側に取っ手がついていますが穴が小さいので、
中に指を通すことができません。
必然的に親指と人差指で取っ手を挟むことになりますが、
そうするとコーヒーが重くて持ちあげられないのです。
コーヒーは熱いのですが、左手を添えて持ちあげないと飲めません。
家内もそうしていました。

私が店の人に注意してやろうとしたら、
家内が「やめておきなさいよ」というので、
やめました。
隣の若夫婦の席にもコーヒーを運んできたので、
どうするのかなと見ていると、ふたりとも困っているようで、
なにか言いながらやはり両手で飲んでいました。

ここのお店のオーナーは自分でこのコーヒーカップを使って
飲んだことがないのでしょうか。
イタリア製のようなのですが、
全く実用的なデザインになっていません。
それとも、イタリア人が指の力が強いのでしょうか。
あるいは、イタリアではコーヒーは
カップの底のほうにちょっとだけ入った濃いやつを飲みますが、
コーヒーの量が少ないので軽くて持てるのでしょうか。

私は日本の製造業に長いこと勤めていたので、
常に「カイゼン(改善)」を求められてきましたし、
気がついたことはすぐに言うようにしつけられてきました。
他の会社の工場を見学させてもらったら、
最後に気づいた点を言うのが礼儀のようになっていました。

言ってあげたほうがお店のためになると思うのですがね。

家内は極力トラブルは避けるというタイプなので、
それはそれでいいのですが。

物言わざるは腹ふくるるわざなり。

閔妃(ミンビ)暗殺

.29 2011 読書 comment(0) trackback(0)
「閔妃(ミンビ)暗殺」 角田房子著 新潮文庫(1993年)を読んだ。
大変なショックを受けた。

日本人が朝鮮の王妃を暗殺した???

福沢諭吉は韓国や中国では非常に評判が悪い???


これがどんな事件かは、解説の大江志乃夫氏の文章をそのまま引用しよう。

「閔妃(みんび)暗殺事件は、
日本の国家を代表する朝鮮駐在公使の三浦梧楼(ごろう)が首謀者となり、
日本の軍隊・警察、暴徒としかいいようがない民間日本人たちを
朝鮮の王宮に乱入させ、公然とその国の王妃を殺害した
という、
およそ近代世界外交史上に例を見ない暴虐をはたらいた事件である。
この事件はいまだに韓国人の胸にふかい傷跡を残しているが、
日本国民の大部分はこの事件についてさえ全く知識を持たなかった。」

「大学受験用の「必携日本史用語」という本に、
現行の高校日本史教科書(20冊)に出てくる歴史用語の頻度を、
A(16冊以上)、B((13~15冊)、C(9~12冊)、
D(5~8冊)、E(4冊以下)に分類して表示してあるが、
「閔妃暗殺事件」は最低のEである。」

恥ずかしながら、私もこの事件のことは全く知らなかった。
たまたま図書館でこの本を見なかったら、永久に知らなかったであろう。
私は大学入試科目に世界史と地理を選択していたので、
世界史は非常に得意だと自負している。
ただ、おそらく私が学んだ世界史の教科書や参考書には
この事件は取り上げられていなかっただろうと思う。
なぜなら私が選択しなかった日本史の教科書ですら、
上記のような状況だからだ。



明治維新前後の、日朝間の主な歴史的事件は次のとおりだ。
1842年       アヘン戦争・南京条約
1863年       高宗(26代)11歳で即位、大院君摂政
1868年(明治1)  明治維新
1875年(明治8)  江華島事件、日本軍艦発砲交戦
1876年(明治9)  日朝修好条約(江華条約)
1882年(明治15) 壬午じんご事変、
            反日・反閔・日本公使館焼討、大院君は清へ拉致
1882年(明治15) 朝鮮と米英独の修好条約
1884年(明治17) 甲申こうしん事変、
            開化・親日派によるクーデタ、清国軍は日本軍を破る。
1889年(明治22) 防穀令、旱魃による穀物不足、穀物対日輸出の禁止。
1894年(明治27) 東学教徒反乱(反日)のため日清両国は朝鮮に出兵。
            日清戦争、95年下関条約、台湾平定
1895年(明治28) 三国干渉、閔妃暗殺
1904年(明治37) 日露戦争、05年ポーツマス条約
1910年(明治43) 韓国併合



この本を読む限り、
とにかく明治維新後の日本は朝鮮に対してやりたい放題であった。

李氏朝鮮と徳川幕府は朝鮮通信使を通じて友好関係を保っていた。
しかし、明治政府は「朝鮮は清国の属国であり、
天皇の部下であった徳川将軍と対等だったかもしれないが、
日本は清と対等なので、朝鮮は一等格下の国である」
という態度をとった。

他方、朝鮮の実権を握っていた大院君は
衛生斥邪論(鎖国攘夷論)を取り、
明治政府のこうした態度への反発もあって、
日本の求める修好条約は一向に進展しなかった。
日本における征韓論もこうした背景で生まれたものである。

とにもかくにも江華島事件をむりやり起こした日本は、
欧米列強に6年も先駆けて、朝鮮を開国させ、
貿易を独占することに成功している。
この時の日本の態度は
「ペリーにやられた通りに、朝鮮にやり返した」
というものである。

この日本の貿易独占時期の朝鮮から日本への輸出は、
米30%、金19%、皮革16%、豆11%、その他24%である。
他方日本からの輸入は、
綿織物57%、その他の織物23%、その他雑貨など20%であり、
しかも綿織物はイギリスの綿製品を中継ぎで輸出したものであった。

この結果、米不足で価格が3~4倍に跳ね上がり、
日本からの綿製品のため朝鮮の綿作と手織り業が衰退して失業者が増大した。
さらに、それまで朝鮮には石鹸がなかったので
日本からの粗悪な洗濯石鹸が大人気となって農村の主婦がこれを買い求めた。
農村には現金が無かったので後払いで米を搾取された。

米不足、物価高のため日本への恨みが増大していた。
他方、閔氏一族(閔妃の出身母体)は、
勢道政治(門閥による官職独占)によって、
貨幣を濫造し毎晩の豪華な宴をまかなっていた。
こうしたときに、軍人への俸給米の支給が遅れ、
しかも中間役人の米の中抜きもあって、軍人が反乱を起こした。
これが1882年(明治15)の壬午事変である。
反日・反閔の反乱は京城の日本公使館焼討となり、
閔妃は命からがら地方に亡命した。
しかし対抗勢力の大院君が、袁世凱により清に拉致されたため、
閔妃は復権した。

王の高宗(26代)は気弱な性格で、子供時代は父の大院君の言いなり、
21歳で親政に移行してからは王妃である閔妃の言いなりであった。

日清戦争は朝鮮の支配をめぐって起こったのだが、
遼東半島を割譲させたため露独仏の三国干渉を招き、半島を還付した。
この日本の外交的敗北が閔妃を決定的にロシア依存に傾かせ、
ロシア公使夫妻と連夜に渡る宴会を繰り返した。

「退潮する日本の影響力回復の最大の障害が閔妃の存在である、
そう考えて閔妃暗殺の決意を胸に秘めた着任した公使三浦梧楼は、
その決意を実行に移した。」(大江志乃夫氏の解説より引用)

閔妃暗殺事件には外国人の目撃者がいる。
アメリカ人で侍衛隊教官のジェネラル・ダイと
ロシア人技師サバチンの二人である。
このためすぐさま駐韓各国公使が、
日本公使館に来て三浦公使を詰問しており、
ジェネラル・ダイの目撃に基づいた記事が
ニューヨーク・ヘラルド紙に掲載されている。

三国干渉を受けたばかりの日本政府は、他国の非難を抑えるために、
事件の嫌疑者48人を日本に送還し、広島で裁判を行ったが、
結局全員が無罪となった。
他方、朝鮮では閔妃暗殺の下手人として三人の朝鮮人を処刑している。

退韓命令を受けた人々の帰国風景は、
「彼ら被告が宇品(広島)埠頭に現れるや、
各地より集合した歓迎者はと列をなし、
被告一同に甚大なる同情と熱情的な歓迎を表し、
一時は広島獄事のために、その見舞い訪問者が全市の客館に充満し、
あたかも凱旋将軍を迎うるの光景・・・」
だったそうである。

それにしても、当時の日本のやり口は、いじめっこと同じである。
いびっていびっていびりあげて、我慢しきれなくて相手が切れて反撃すると、
それを口実にまた莫大な賠償を要求し、内政干渉をする。
そしてとうとう韓国併合を成し遂げたのだ。


確かに、閔妃とその一族は、列強が植民地主義を唱えている時代に、
まるで日本の平安時代かと思うような勢道政治(門閥による官職独占)を
繰り広げ、自分の生んだ子を次の王にしようと権謀術数に明け暮れていた。
民衆が物価高と失業にあえいでいるときに、
毎晩大宴会を催して寝るのは明け方だったという。
役人も夕方からしか仕事を始められなかったという。
彼女が民衆の怨嗟の対象となり、
フランス革命のマリー・アントワネットのように、
民衆の手で処刑されたのなら、それはそれでしようがないと思える。
それは朝鮮の国内事情だからだ。

しかし、戦争を仕掛けるならともかく、
外国が他の国の王妃を邪魔だから殺すなどという事は
決して許されるものではない。

明治政府が朝鮮を見下していたのは事実であるが、
その当時朝鮮は文化的政治的に劣等国であるという
見下した考え方は知識人も持っており、その代表格が福沢諭吉だった。
彼が一万円札に登場した時には、韓国人や中国人は嫌悪感を示したらしい。

福沢は1875年の江華島事件の時、
「朝鮮討つべし」という世論に反対して、
「日本に利や益をもたらす国ではないから、小野蛮国なんぞほっておけ」
という態度だった。

ところが1881年の「時事小言」では、
西洋諸国が東洋に迫ってくるのは火事のようなもので、
日本だけが不燃建築にしても近くの国が木造のままでは類焼の恐れがあるから、
彼らも不燃建築にするよう日本が手を貸さねばならない、
と意見を変えている。
「武以って之を保護し、文以って之を誘導し、速やかに我例にならいて
近時の文明に入らしめざる可らず。我はやむを得ざるの場合においては、
力を以って其進歩を脅迫するも可なり」と書いているのだ。

1883年の時事新報では
「ともかくも、日本以外の国々をして、断じて朝鮮に手を出さしむる訳にはいかぬ。
日本が独り之に当たるのが、日本の権利であって亦其の義務である」
と言っている。

1885年の時事新報に掲載された「脱亜論」の中では
もう朝鮮は誘導するに価しない国だと決めつけ、
地理的に近い清国や朝鮮と日本が同じような文明開化に遅れた国だと
西洋人から見られるのは日本にとって一大不幸だと言っている。
前年の甲申事変で開化・親日派によるクーデタが失敗したことが
福沢の変化の原因らしい。

「脱亜論」の5ヶ月後の時事新報で、福沢は
「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と言う過激な社説の中で、
「他国政府に亡ぼさるるときは亡国の民にして甚だ楽まずといえども、
前途に望みなき苦海に沈没して終身内外の恥辱中に死せんよりも、
寧ろ強大文明国の保護を被り、せめて生命と私有とのみにても安全にするは
不幸中の幸ならん」と書いた。
さすがにこの時は時事新報は発行停止を命ぜられている。

福沢諭吉がこれでは、一般日本人の考えも同じだったであろう。

それにしても、良い勉強をさせてもらった。
まだまだ知らないことは世の中にあるものだ。
謙虚に反省しなければならない。

秋の花 Une promenade a deux

.28 2011 花(草花) comment(0) trackback(0)
横浜市の青葉区役所に証明書を貰いに行きました。
折角だから車ではなく、歩いてみようと、
家内を誘って出かけました。
某有名サッカー選手の新築中の家の出来具合を見たりして
ぷらぷらと歩きましたが、30分で区役所には着きました。

その途中で見かけた秋の花がありました。
茶の花がもう咲いています。
山茶花(サザンカ)も同じ仲間ですから追っかけて咲いてくるのでしょう。
001茶の花01
Theier

木立朝鮮朝顔(キダチチョウセンアサガオ)(ナス科)が
あまりに見事な咲きぶりでしたので、載せて見ました。

(注)朝鮮朝顔(チョウセンアサガオ、ナス科)は花が上向きに咲くとのこと。
002朝鮮アサガオ
Brugmansia (Angel's trumpet)

このミニりんごは鈴なりでいかにも美味しそうでしたね。
003ミニりんご02 004ミニりんご01
Pomme-mini

この木は最初は何の木かわかりませんでした。
小さい実がびっしりなっていたのです。
地面に落ちていた枝からこれがミニの柿だとわかりました。
この柿は食べられるのでしょうか。
004ミニ柿02 005ミニ柿01
kaki-mini

市役所の帰りは、行ったことがないというので、家内を市ヶ尾古墳群に連れて行き、
みすずが丘の「グループホームみどりのそよかぜ」の前の畑に案内しました。
ここらあたりの畑は、畑といっても、すでに石垣できちっと区画整理してあり、
いつでも分譲住宅用に売り出せるのですが、
畑にしておいたほうが固定資産税が安いのでしょう。

ここは今年の春の散歩で私が開拓した所で、
照手姫タイプの花桃の苗木がたくさん植えてあり、
今年は花の時期を見逃しましたが、
常泉寺まで遠出をしなくても花桃が楽しめるのではないかと期待している所です。

ここで今回は、紫色の実をびっしり付けた、こんな木を発見しました。
おそらく植木用なのでしょうか、この木がたくさん植えてありました。
006コムラサキ01
Callicarpa japonica

「ムラサキシキブによく似ているけれど大きい木ね」
家内はこのムラサキシキブという木がお気に入りなのですが、
山で見かけるムラサキシキブは人間の腰の高さくらいの潅木ですが、
この木は高さが2~3mくらいありそうです。

帰宅して調べてみると、「コムラサキ」という植木専用の木でした。
山に生えているのがムラサキシキブで、
庭木用の園芸改良された背の高い品種がコムラサキであり、
ほとんど全く同じ種類だそうです。
007コムラサキ02

ダリアの花畑のそばには、ホウキ草(コキア)が赤くなっていました。
茨城の日立海浜公園のコキアの畑はあまりにも有名ですが、
私が子供の頃、島根の田舎ではこの草が枯れたあと箒として使っていました。
008ホウキ草(コキア)
Kochia

ダリアの畑の隣は、そば畑でした。
010そば畑01
Ble noir

そばの花を見るために、神代植物園に行こうか、秦野市のそば畑にゆくかと迷った挙句、
瀬谷区のそば畑を先日観に行ったのですが、
こんな近くにあるなら、ここでも十分でしたね。
もっとも白い花だけで、高嶺ルビーはありませんが。
011そば畑02

このあと、すぐ近くのシシリア料理店にお昼を食べに入ったのですが、
その話しは後日。

謎の小道 Un sentier cache

.27 2011 あざみ野近辺 comment(0) trackback(0)
今年の4月に「隠れ里」という記事を書きましたが、
心地よい秋風に誘われて同じ尾根を散歩で攻めて見ました。
隠れ里に入る一つ手前に小さな道を見つけました。

その入口の手前に不思議な碑が置いてあります。
なぜこんな碑があるのでしょう。
詩のような、絵手紙の文章のような、
しかし心を和ませる、あたたかい文章です。
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気がつくと、更に三枚同じような日が小道にそっておいてあります。
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(写真をクリックすれば拡大し、碑文が読めます)

この道は私道のようなのですが、こんな面白そうな碑があるとすれば、
途中で引き返すわけには行きません。
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更に一つの碑文を発見。
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路は竹やぶの中をまだまだ続きます。
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更に5つの碑文がありました。
それにしても、「みつを」というのは誰なのでしょう。
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とうとう畑に出ました。
この畑はすぐ下まで来たことがあるので知っています。
ここから先は、グループホームでデイサービスもやっている
「万寿の森」の畑です。

結局今までたどっってきた謎の小道は
「万寿の森」の「心の散歩道」だったということが、あとで分かりました。
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少し下ったところに、「願」という大きな碑があって、
長い説明文が書いてあります。
これによると、「万寿の森」を経営している社会福祉法人「青葉福祉学院」
の経営思想に賛同して、「相田みつを美術館」がこれらの碑を寄付したことになっています。
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家に帰ってから、「相田みつを」を調べたところ、
書家で詩人であり、書と詩の融合を目指した人らしいです。
丸の内の東京国際フォーラムの地下に「相田みつを美術館」がありました。

最近のホットな話題では、
野田佳彦新首相が民主党代表選挙の演説で引用した
「どじょう」の詩の作者が相田みつをだったということです。
お陰で、美術館の入場者が急増し、詩集も増刷されたという
産経新聞の記事がありました。

「万寿の森」の前の畑では、ボランティアの人が
さつまいもの畑を掘り返していました。
その内の一人は我が自治会のボランティア活動のリーダー格の人で、
私の顔見知りでした。
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畑のそばで色づいたカラスウリの実を見つけました。
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