お昼に赤そばを食べると、今日の予定はもうありません。
旅館に行くには早すぎるので、
家内の要望で、諏訪大社へ引き返すことにしました。
ナビに諏訪大社とインプットするとたくさん出てきましたが、
最初の「諏訪大社上宮本宮」を採用して出発。

ありました、ありましたよ。
インディアンのトーテムポール、エジプトのオベリスク、ブルターニュのメンヒル、
古代宗教にはこいういう柱が出てくるのが共通していますね。

これが御柱、一の柱です。
なになに、「樅ノ木」、「裏側はすり減って」、「神域の四隅に建立」
「次回は、・・・平成二十八年」。来年じゃん。

木の裏側に回ってみると、確かに削れていますね。
絵図で見ると、神社の四隅に立っているようです。

前回の立てているときの写真がありました。
寅年と申年に建て替えるそうですから、6年ごとですかね。
来年の4月から祭りが始まるそうですから、見に行きたいのはやまやまですが、
すごい人出なんでしょうね。

信州出身の雷電為右衛門の像。

その隣の舞殿。ものすごく大きい太鼓がありました。

つい先日、ここで奉納試合があったとのことです。
しかしモンゴル出身者ばかりでは、もう日本の国技とは言えない?

順路に沿ってゆくと、ここに二の柱がありました。
右隣は樹齢千年の欅の木。

布橋と呼ばれる回廊です。

これは「メド梃子(てこ)」という、御柱を運ぶときに人が乗って指図をする梃子です。
縄の穴を数えると七人が乗れるようになっています。

例の坂を下るときの写真です。確かに七人ずつ両側に乗っていますね。
でもこれ危険ですよね。ようやるわという感じ。死人が出てもおかしくはない。

大国主の命を祭った社がありました。
「あー、ここの神様は建御名方神 (たけみなかたのかみ)か。
国譲り の時に、稲佐の浜でアマテラス側の建御雷神(たけみかづちのかみ)と喧嘩して
ここ諏訪まで逃げたという大国主の次男坊じゃん」
「よく知ってるわね」
「そりゃ、島根県出身ですからね」

これが出雲大社のそばの稲佐の浜です。

Wikipediaの諏訪大社 では、祭神は詳しく説明されていますが、
肝心の
諏訪大社のHP ではその辺は殆ど説明はありません。
苔むした手水鉢。趣がありますね。

本殿の方に向かいます。

ちょうど儀式をやっていましたが、ちょっと変わっていますね。
普通の神社ではご神体(鏡?)の方に向かって座るのですが、
横向きですね。

本殿の右横の「硯石」。岩の上に何時も水が溜まっているそうです。
どうもここがパワースポットのようですね。

境内にあったキササゲの実。
ノウゼンカズラ科なのですが、私はまだ花を見たことがありません。
出会うのはいつも実ばかり。

神社の前の土産物店で売っていた、地元産マツタケ。
「今晩、旅館で食べられるかもしれないから、買わないわよ」
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月曜日になったので、シルバー族が再び動きます。
信州伊那谷まで赤そばを見にやってきました。

Tapis rouge de "
Sarrasin rouge"
ここは長野県上伊那郡箕輪町にある「赤そばの里」です。

ナビに長野県箕輪町をセットして、中央道伊北ICから降りると、
すぐにこういう幟や案内板がでてきます。

このカメラマンのお兄さんは朝日新聞という腕輪をしていました。
季節の記事にはうってつけですよね。

赤そばはどこかの大学の先生が、ヒマラヤ原産のそばから作った
高嶺ルビーという品種です。

コガネムシやアサギマダラが蜜をすいにやってきています。
この蝶々はこれから鹿児島や沖縄のあたりまで飛ぶんですよね。

それにしても見事です。
芝桜もそうですが、こういう花は斜面に植えると余計見ごたえがあります。

東側には、南アルプスの甲斐駒ケ岳と仙丈ケ岳が見えます。

今日は9月28日月曜日なので、カメラマンのほとんどは
シルバー族です。

一番奥から見下ろすとこんな感じ。

背景にアルプスがあるのがいい。

この次は、こういう感じの広い白のそば畑を見てみたいですね。

お昼は村の皆さんがやっている小屋で当然ながらそばをいただきます。
赤そばの方が白そばよりも300円高いのですが、
しようがない。

赤そばのかけを注文しました。
味に色はついていないので、同じですね、白も赤も。

食べ終えて外に出ると完売していました。

そうか今日はフルムーンか。
赤そばと満月、いい写真が撮れるでしょうか。
シルバーウィークの間は家でじっとしていたシルバー族が動きます。
関東の彼岸花の名所として唯一残っていた
権現堂堤(埼玉県幸手市)0480-42-6221にやってきました。

大きな駐車場が2か所ありますが、ほぼ8割の入り。

我々と考えを同じくしたシルバー族がほとんどです。
残念なことに、混雑は避けられたものの、
あれだけよかった天気がどこかへ行ってしまいました。

ここ権現堂堤は、
菜の花と桜の組み合わせ があまりにも有名で、
私も5年前に花見に来たことがあります。

しかし、土手には水仙(2月)、あじさい(6月)も植えられていて、
一年を通して観光客が来るように頑張っています。

しかし、この彼岸花という花は歴史上は不思議な花です。
稲作とともに大陸からやってきたと一般的に言われていますが、
文学や絵画工芸品に現れてくるのは、ほぼ明治になってからなのです。
万葉・古今・新古今の和歌集にも出てくることはなく、
紫式部、清少納言、吉田兼好、西行法師も見ていません。
日本中を歩き回ったはずの芭蕉すら一句も読んでいないのです。
ようやく江戸末期の蕪村の俳句に初めて出てくるのです。
また、琳派の日本画にも描かれず、浮世絵にもなく、
漆器などの工芸品にも図案化されていないのです。
この強烈な赤を見て、昔の芸術家が一言も触れていないなんて
不思議です。おかしいです。
地獄花とか死人花とかいわれて忌避されていたからだという人もいますが、
文学では京都の化野や葬式の描写もあるわけですし、
地獄絵図の中にちょっと出てきてもいいと思うのです。
それが出てこないというのは、
要するに江戸以前にはこの花は存在しなかったという方が理屈に合います。
私の勝手な推測ですが、おそらく江戸時代の後期から、
球根に毒があるからモグラが嫌うという噂が広がって、
田んぼの土手や畔に植えられたのではないでしょうか。
田んぼの水漏れはお百姓さんが一番嫌うことですから。
(実際にはモグラに対しては何の効果もないらしい)
明治以降の短歌や俳句には怒涛の如くこの花が歌われているのです。

これは、新羽の西方寺でも見たピンク。
園芸品種で「薩摩美人」という名札が付いていました。

これで、関東の彼岸花の名所といわれる
巾着田 、
日向薬師 、
小出川 とあわせて4か所を制覇しました。
これからは関東以外にも出かけてみましょう。

堤の西の端にあった、明治天皇の行幸記念碑。
明治十年、右大臣従一位、岩倉具視の碑文がありました。
昔の偉い人は達筆だったのですね。

お昼は、駐車場の隅にあった「かつ太郎」で熟成とんかつをいただきました。
名前を記入して一回りしてくればちょうどいいくらいの混み具合でした。
下の孫ももう6ヶ月。人見知りをするようになりました。

Bébé farouche
ついこの前までは、にこにこと誰にでも愛想がよく、
さすがに次男坊だと人気者でしたが。
知恵がついてきたんですね。
おばあちゃんが抱いても、泣かれてしまいます。
お母さんでないとダメなんです。
「人見知り」で検索すると、早い子は一歳で終わるけれど、
2~3歳まで続く子もいるし、小学校に行っても治らない子もいるようです。
早く元の愛想のよい子に戻ってくれますように。
それにしてもお母さんは大変。

食事の間も抱いてやらないと。
お兄ちゃんまでが寄って来るしね。