町内会のバス旅行で
富岡製糸場 に行ってきました。
平日だというのに、すごい人出でした。
さすが世界遺産に登録された効果なのでしょうが、
この夏に行った閑散とした萩の町と対照的ですね。
結局、首都圏に近いかどうかの差なのでしょう。
La filature de soie de Tomioka懐かしい郵便ポスト。
ここでは必ずガイドさんがつくようです。
ガイドさんの話が面白く、またガイドさんの話がなければ
それほど美しくもない建物の外側を見るだけのつまらない観光になるでしょう。
横浜山手の西洋館のように内部を見せてくれるわけでもありませんしね。
明治5年に作られた印です。
最初の建物は東置繭所です。
こんな繭を保管しておく倉庫です。
この煉瓦は埼玉県の深谷市から瓦職人を連れてきて
ここに釜を作って焼かせたものだそうです。
このように長いレンガと短いレンガを交互に並べるのは
フランス式というのだそうです。
(イギリス式は全部長いレンガを並べるだけで簡単なのだとか)
次が繰糸所。当時としては珍しい総ガラス張り。
板硝子はすべてフランスからの輸入品です。
当時は電気がまだなかったため明るくするためにガラス張りにしたのです。
(電気は大正時代に入ってから)
ここに入っている繰糸機は最近まで使われていた日産製ですが、
当時はフランスの機械が入っていたのです。
建物は明治のままで、柱が一本もない建物です。
明治5年の創業当初は、女工はなかなか集めるのが難しかったようです。
当時工場で労働して賃金をもらうということがどういうことか
まだよく理解されていなかったのと、女性が働くという習慣がなかったからでしょう。
当時としては革新的に一週間単位で働き、日曜日は休み。
一日は8時間労働で残業はなし(電気がなかったので昼間だけ)。
正月とお盆はそれぞれ10日間ずつ休みが与えられたとか。
(今の人よりいい労働条件かも?)
当時の女工さんの月給は腕の良い1等女工で1円70銭
(今の3万円くらい)で、3等女工で1円だったとか。
確かに安いといえば安いのですが、
三食賄いつき、寮費無料で医者がいたので医療費も無料、
何よりも毎日風呂に入れるというのが人気だったようです。
これは首長館。
この工場を作って技術指導したブリュナというフランス人の家族の社宅で
約1000㎡あり、食料保管用の地下室もあります。
ブリュナの月給は700円で当時の総理大臣の月給800円と大差なかったとのこと。
(女工さんの給料から換算すると月給1200万円)
こうした建物を設計したのは当然フランス人だが、
メートルで書かれた図面をもとにこれを建てた日本人の大工の棟梁も
凄いもんだとガイドさんは当時の日本の技術水準と教育水準の高さを
やたらほめていました。
女工館。
女工といっても日本人ではなく、首長のブリュナがフランスのリヨンから連れて来た
15歳から25歳の技術指導のための女工4人の寮です。
彼女らの月給は100円だったとか。
これは昭和に建てられた日本人女工の寮。
火事の時に逃げるための滑り台が付いています。
資料館でやっていた当時の繰糸の実演。
製糸場の前の街中にあった蕎麦屋さんの宣伝用オブジェは
なぜか大きなフグ?
富岡製糸場の見学の後は、碓氷峠の横川駅前にある
「おぎのや」というお店に釜めしを食べに行ったのですが、
バスが20台近く停まっていましたよ。
ここは2階の団体さん専用の食堂です。
ずらっと並んだ釜めしに圧倒されました。
世界遺産になると釜めし屋が儲かる?
これが一人前。温かい味噌汁が付いています。
釜めし!! もちろん美味しかったですよ。
建物の一階の個人用食堂のそばで見つけた摩訶不思議なデザート。
白玉 + みそだれ + バニラ = 焼きまんじゅう味噌ソフト
なかなかいけます。
この後、妙義山神社に向かいました。
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