スイトコ人麿

.24 2016 島根県 comment(0) trackback(0)
私が生まれた恵良(えら)地区(江津市二宮町神主)には
柿本人麻呂伝説があります。
他に何もない私の田舎では柿本人麻呂は誇りであり
観光ネタの売り物でもあります。
私も過去に「石見の海」2015/5/5、「万葉古道」2014/9/28 と
何回も記事にしています。
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このツツジの茂みの中に「スイトコ人麿終焉伝承之地」という碑が立っています。
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要するにスイトコ人麿=柿本人麻呂なのですが
その説明は一切ありません。
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スイトコとは何か。
ネットで調べても答えはないので
我が家にある「二宮村史」という
昭和6年12月発行の128頁の小冊子を紐解いてみました。
その中での柿本人麻呂の伝説は
概略以下のように書かれていました。

人麻呂は天智天皇の御代に大和の国に生まれ、
幼くして父を亡くしたので母に連れられて
石見の国の親類に頼った。
生まれつき物覚えが非常によく語り部となった。
二十歳の頃天武天皇が歴史書を編纂するために
昔語りをよく知っているものをお召しになり、
かれも都に上った。
歌の才能を認められ皇太子の舎人に採用された。
40歳ころ役人として筑紫へ下った。
2~3年で都に帰ったが、再び地方官を望んだ。
望み通り石見権守に任ぜられて帰郷した。
里の豪家の娘(恵良媛)を妻に迎え、殖産に勤め、
石見和紙はそのたまものである。
48歳の時熱病にかかってこの地で死んだ。

その地のあさ名を四十八といい、
熱が発散しやすい様に透床を造ったそれを
スイトコという。

この時石見の国府は恵良の里にあり、
のち伊甘郷(浜田市上府町)に移された。

柿本人麻呂の終焉の地については
斎藤茂吉の三郷町説、梅原猛の益田市説、
その他安来市説など諸説ある。

ともかく、スイトコの意味がわかったことは嬉しいです。


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